2016年9月29日木曜日

野戦之月海筆子テント芝居公演/渾沌にんぶち






私事で恐縮ではあるが、思い出話にお付き合い頂こう。


20年前の福岡県北九州市。

1996年だ。


その頃、福岡市で『劇衆南組』と言う「如何にも九州の劇団」と言う感じのド・アングラな劇団に所属していた。

その関係で呑屋の主人が「野戦の月って言う劇団があるんだけど、手伝え」と言ってきた。

「トーキョーの劇団なんだけども」

20年前の九州大陸にとって『トーキョー』と言う場所は『遙か東にあるとされる電子城・・・』であって、全く分からなかった。

東京演劇シーンは全く分からなかった。調べてみると現代演劇の現状のTOPである平田オリザの青年団が最盛期を迎えていたらしい。

だが、20年前は演劇雑誌の『新劇』は辛うじて発売されていたが中身が分からない。
『演劇ぶっく』は売れていたが、劇団新幹線の為の雑誌のようなモンでコチラには無関係と言う感じがした(劇団新幹線は大阪のDQNになれなかった子達がDQNの真似事をしている、と言う感じだったが)。

音楽は『渋谷系』とか『テクノ』とか流通網があったので思う存分に知ることが出来るが、演劇となると東京の劇団は頑張って大阪まで来て、更に頑張る劇団だと名古屋まで来る。

九州大陸には秋風だけが吹いている。


そんなワケで興味もあって行ってみた。テント芝居ってどんなのだろう?と思ったのもある。

私が所属していた『劇衆南組』がテント芝居的なニュアンスだったから(因みに其の劇団は女問題でクビになった。その後、3年程して劇団は金と女で解散した)。



で、テント設営を手伝ったのだが「まぁ、なんと非効率的な・・・」と唖然とした。


4tトラック位だったと思うが、テントとセットが巨大すぎて「これで全国、回るわけ?」と理解出来なかった。

朝から晩までかけて同じく手伝いに来ていた10人以上と必死にテント劇場を設営して、ボロボロなのに通し稽古・・・はしてなかったと思う。時間的に出来なかったと思う。

で、本番。

テントの2/3がセットで、残りが客席なのだが客は溢れかえっている。最後はテントの裏をあけていたほどで。

客席には公安とか私服警察が高額な一眼レフカメラで撮影しまくっている。上演時間は3時間だったと思う。

役者は何を言っているのかサッパリ、分からず。

やたらと歌いまくり(手には松明)

「これでクライマックスで終了か」と思ったら、そのクライマックスが6回もある。

客席からは「異議なし!」とか「だいぞー!」とか声があがりまくる。

異様な熱気の劇団だった。


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そんな事もあり、公演があると行きたかったが流石に九州には合計3回しか来てない。
だから、私が観たのは最初の時以来、全て東京に移住してからである。

唐組に在籍していた頃も観に行った。

台湾の劇団と交流を持ち始めた頃で、その頃にテントを組み替えた。

『EXODUS』と言う舞台だったが、既に唐組にいたので「なんとアナクロな・・・」と思った。

テント演劇の創設者って事もあって唐組のテント設営は結構、システマチックなのだが野戦之月は「人力!」と言う感じが凄かった。

その頃に台湾の劇団と交流を持ち始めたのか、台湾人の役者も登場していたが字幕なんかなくて、台湾語でやるので観客の誰一人として台詞が理解出来ない。

因みに『EXODUS』はコケた芝居だったと思う。

帰り道の観客の雰囲気が重かったのを思い出す。

思えば名優『え~りじゅん』の怪演を観た最後の公演だった。私は『役者:え~りじゅん』に憧れていたから、彼は私の中でスターだった。
「あんな役者になりたい!」
と思ったから、彼が舞踏家と言うのを知ったのは彼の死後だった。

野戦之月は事前の情報が多くはない劇団なので『え~りじゅん』が登場するのかどうなのかは観に行かないと分からなかった。



唐組を退団してから『演劇』と言うモノから遠ざかった。



遠ざかったどころか縁を切った、と言うか。唐組にせよ、唐十郎と言う人物の影響力ってのが凄まじくて、そうでもしないと次に行けない気がしたから。

その頃に野戦之月の劇団員の大量離脱だとか、分裂騒動だとか、一旦、休眠(解散)を知った。

で、ようやく再結成して、それに駆けつけた。

三鷹市の空き地だった。

劇団員のほとんどは変わっていて、若手役者が大半を占める事になった。








それ迄、とても男臭く、叫びまくり、台詞は何を言っているのか全く分からず、兎に角、強引なムードでフィニッシュに持っていく、と言う劇団だったのだが、役者が若手になってから台詞が『棒読み』と言うか、かつての様な『叫ぶ』と言うのがなくなった。

すると、だ。

実は劇団主催者で、戯曲家である桜井大造氏の戯曲が、蕩けるようなロマンチズムと、艶っぽさ、そして壮大な抒情詩であることが露見した。

それまで分からなかったのか?と言えば、とても判るモノではなかった。

私もアングラ演劇をやっていたのだが、聞き取れる台詞が桜井大造と看板女優:ばらちずこだけだったから。

「劇団野戦之月が変わるのか?!」

と思った。物凄く驚いた。

で、其れから観に行くたびに役者は変わって行くのだが(流動的な時期だったんだと思う)、段々と安定してきた。

だが、稀代の戯曲家:桜井大造氏も歳には勝てぬか・・・と思ったのが「蛻てんでんこ」だった。

役者達が安定して在籍するようになったが粒が余りにも小さく、致し方がない部分もあるのだろうが、『汚れ役』とか『過激な演技』を本来であれば新劇直系とも言えるスタンダードプレイを得意とする桜井大造氏がやる事が多かった。

だから、今年は3年ぶりに観に行った。

正直、期待値は低かった。3年前の状態で続けるのか?と言うか。






ところが。


泣いた。

演劇なんぞで泣いたのは10年ぶりか。思わず泣いた。不覚にも感動して涙が出た。全く不覚だった。


あの大馬鹿どもの演技や台詞、戯曲に魂が揺れた。


内容を書いても致し方がない気もするが、テーマらしきものはあって『流浪の民』・・・桜井氏は『流浪の民』と言った『曖昧な』モノを書かないので、大雑把に言えば

『貧困層』

である。貧困層、難民、それらが常に歴史を動かしてきた。時代の最先端と言うものは、とても寂しい。
先行者がいない荒れ地だ。それを突き進むのが・・・と言う。

それらの階層民を水に例える。

水は安定しない。流れていく。固まることもあるが、それは仮の姿で(コップの中とか)、延々と流れていく。

小さな個が集まってるに過ぎない。だが、それらが個が集まることで別の姿に変える。

死、テクノロジー、抒情詩、全てを飲み込む、と。


ラスト30分の緊張感と、最後の開放感はカタルシスそのものだ。


野戦之月のスタイルは『長尺の長セリフ』『モノローグ』が多い事で、モノローグが殆ど一人芝居に近い程の難易度。

難易度と言うか台本を買った事があるのだが『台詞』として書かれた言葉と言うよりゲーテの『ファウスト』や『ダンテ:神曲』みたいな、抒情詩なのだが。

野戦之月は貧民や、難民、底辺住民を否定もしないし肯定もしない。


私は『劇団曲馬館』や『劇団風の旅団』時代を知らない。知った頃には解散している。

だが、残された資料から察するに「いわゆる、左系の劇団」と言う感じ。

天皇制にせよ、右翼、左翼、全てを否定もしないし、肯定もしないのが桜井氏の魅力である。

それらを否定・肯定するのではなく『存在を認める』『汲み取る』と言うか。


私事で恐縮だが、私も貧乏暇無しなわけである。と言うか、裕福で暇がある人のほうが少ない日本だが、貧乏暇無しと言うのが之ほど否定される国もない。
当事者達が否定するのだから、どうしようもない。

桜井氏のスタンスは違う。

否定せず。肯定せず。淡々と汲み取っていく。それこそがアートだ、と言う(劇中の台詞にそう云うシーンがある)。

だが、桜井氏が扱うテーマは何時も途方もなく大きい。

特に311以降は『311以降』『右翼化する国』と、普通のアーティストならば誰もが避けるテーマである。

本来なら広義の意味で『アート』に属する人達が扱うべきテーマなのだが、私が知る限り、それに真摯に向き合って、汲み取り、それを壮大な抒情詩にしているのは桜井氏だけである。

客席にいる誰もが存在を認められる。

其れはアートの原点であり、同時に究極なのである。


心が揺れる、魂が響くなんてもんじゃなくて『魂を抜かれる』程のカタルシスだった。


『人の存在を認める/汲みとる』


と言う事がアートなのに、誰がやっている?

「私の存在を認めて!汲み取って!」

と言う作品ばかりだ。其れは現代美術にせよ、演劇にせよ、音楽にせよ、だ。

だが、認めないと認められない。汲み取らないと汲み取られない。


私も演劇青年だったから判るんだけども、基本的に小劇場なんて「追い込まれて」いる人しかいないんだよな。

ブラック企業みたいなもんで劇団内では存在が認められるから、下手でも何とか莫大なノルマを払いながら所属している、みたいな。

でも、他者を認めないと認められないって言う当たり前の事が分からないんだよな、って言うか、認めるほど余裕がない、と言うか。

唐組に限らず、他劇団にいた時もそうだったし、そんな奴等は大勢いるわけで。

野戦之月が余裕がある、と言う事ではなく(むしろ経済的にも体力的にも余裕が皆無と
思う)、アートと言うものの『あり方』『存在意義』と言うか。

金持ちの知的ゲームの為に『現代美術』と言う物があるが、『現代美術』が認めるのは経済的に裕福な人達だけである。

時給800円で働くセブン・イレブンの店員なんて糞食らえなんである。


内部にいたから言っちゃうんだけど唐十郎だって、一般客なんて糞食らえでさ。スポンサーと言う関係もあるんだが、文化人だとか著名人こそが自分の客と思っていたワケだしな。


掛け値なしに素晴らしい総合芸術だった。


日本にはバレエもない。オペラもない。スカラ座もないし、ブロードウェイもない。

だが、野戦之月がいる。

ピナ・バウシュも大野一雄もスタインベックも死んだ。だが、桜井大造がいる。


私は経済的な理由で大野一雄もピナ・バウシュもピーター・ブルック観てない(チケ代7000~1万、2万は高ぇーよ!)。

だが、連中を観てなくても野戦之月の公演一本で事足りる。

「アートとは何なのか?」

「アートの役割」

と言うモノを知りたい人は、野戦之月は行くべきだと思う。


・・・「アートの役割」とか考えている人、少ないけどねぇ・・・。


最後に役者陣。

新顔が多いし、webを観ても役者陣の写真がないので顔と名前が全く一致しないのだが

1:ばらちずこ

最高だった。ラスト30分の中で繰り広げられる一人芝居は畏怖・畏敬・圧巻だった。いつだって『ばらちずこ』は最高の女優だ。

 



2:ロビン

今回の公演で一番、魅せた若手はロビンであることに異論はないだろう。カナダだったか、アメリカだったか、西洋人が何で、この劇団なんだ?と思うのだが、今回はキレの良い動きと、表情。
一挙一動で見せてくる。






3:濱村篤

濱村さんも老けたなぁ・・・と思った。いつだって濱村さんは最高なんだけど、私も40歳で、濱村さんが若かった頃もあったんだよな・・・と思った(若き日の濱村さんは、そらぁ、色男でした)。


4:森美音子

観る度に鬼気迫る怪優となっていく。初めて観た時は、確かまだ30代前半だった覚えが。
30代だけど老婆の役をやっていて、立ち位置からパンツが見えていて、老婆の役なのに結構、派手なパンツを履いていたのを思い出す。
今回はモノローグのシーンは、胸を鷲掴みにしてくる芝居だった。














5:主人公役の男性

之が未だに名前が分からない。クレジットされているんだろうが、顔と名前が一致しない。
いつの間にか参加していて、その頃からヒロイン役と言えば聞こえは良いが主人公である。
で、2008年の『ヤポニア歌仔戯 阿Q転生』で登場したのを覚えている。
最高に良い役者なのだが、当時は普通に下手だった。
今回は「これぞ野戦之月の看板役者!」と言う堂々たる演技。
動きのキレも、台詞のキレも、ルックスも最高すぎる。一体、何者なんだ?と何時も思うのだが、謎の主人公である。


6:桜井大造

言うことなし。心なしか役者陣のレベルが桁外れに上がっているので、桜井氏が必死に汚れ役をやらなくて済む、と言うか余裕を感じた。
桜井大造氏は主人公じゃなくて、ワキを鉄壁で固める人なんである。
戯曲家としては『稀代の劇詩人』。





野戦16の秋
野戦之月海筆子テント芝居公演
渾沌にんぶち
9月21日(水)横浜 寿生活館前 寿児童公園
      午後5時半開場・午後6時開演
      京浜東北線・根岸線 石川町駅 徒歩5分

 9月24日(土)いわき市 平廿三夜尊堂前(いわき市平十五町目2)
      午後5時半開場・午後6時開演
      常磐線いわき駅 徒歩 6 分 

9月27・28日(火・水)
東京 木場公園 多目的広場
      東西線木場駅 徒歩10分
      大江戸線清澄白河駅 徒歩15分
      都営新宿線菊川駅 徒歩13分
      午後6時半開場・午後7時開演

10月1・2日(土・日)東京 国立市 矢川上公園
   午後5時半開場・午後6時開演
   南武線矢川駅 徒歩 4 分 
   中央線国立駅南口より バス約10分
  (1番、4番乗り場 矢川駅、国立操作場、国立泉団地 行き)「矢川駅」下車 徒歩4分



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吉野繁さんとは何故か野戦を見に行くと必ず遭遇する。吉野さんの元奥さんってのが社民党から立候補して秒速で落選した「増山れな」なんだが、離婚してもモテる人で、若い頃から『植木等』的な男性だった。だから、会うといつも良い女を連れている。
今回も遭遇。
で、テントの中で少し呑む。

ってか、吉野繁さんは林栄一の元から独立してフリージャズを始めた頃から知っている。お互い、メチャクチャに下手だった頃である。
植木等的なスタンスは変わらない。

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